動機としては、宣伝写真の谷村美月がかわいかったからなんだけども。
(あんなナイススタイルで中性的な魅力があるなんてすてきだ)
途中、あれ、これカズマくん(bySW)?ってなったのも白状するけども。
思ったより全然いい映画でびっくりした。
つまりは学生二人が(一方は弟に成り代わって大学行くニセ学生、もう一方はアメリカの大学を10代で卒業した天才少女、なんだけども)「人に宇宙は作れるか」っていうのに挑戦する話で。映画のあおりとか売り方見てても、スピード感あふれる割と内容の薄い青春ものか?と思ってたんだけども、テーマのインパクトにひきずられず、結局は二人の人間の話だったっていうとこが私としては良かった。二人の内面の描き方も好き。分かりやすいしくどくない。
終わりがちょっと?てなる感じもわかるけど、たまたまその後に読んだ本の↓の文章を読んで、私はなんか妙に納得した。うむ。
太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と雖いえども、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を孕(はら)んでいる。
光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。
宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火(りんか)に過ぎない。況(いわん)や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。
そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。
真砂(まさご)なす数なき星のその中に吾(われ)に向ひて光る星あり
しかし星も我我のように流転を閲(けみ)すると云うことは――兎(と)に角(かく)退屈でないことはあるまい。
芥川龍之介ー『侏儒の言葉』、星
あ、あと話と映像がマッチしてる映画だな、と思った。それ当たり前のようでちぐはぐなん多いことないかい?(誰に)
三池監督の手がけてる中では、一番好きかもしれない。
汚れとか血の表現とかっていう意味と、実際、どちらの意味でも「暗い」画面がこういう映画に結構ハマるんやなって思った。
三池さんはアクション(いうかまぁヴァイオレンス)のイメージで、多分それはだいたいがそうなんだろう、っていうのは最近規模でかい映画、アクション、爆破!ヒーローyes!みたいなん多いから。
でも、テーマとしては明るいものが多い気がする。
それが悪いとかではないけど、「神様のパズル」見て、三池さんで、血とか暴力とかなしで重いテーマの、社会的なテーマとか罪悪についてとかいいね。そんな映画みてみたいなーと思った。渋い、映画館いったら40代男性ばかりだぜ!みたいな、そうだ、そうだ、松田優作さんの映像からでてるみたいな、あーいう男臭い、静かなやつ作っておくれよ。(誰に)
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